多分残りのひとたちはひとり残らず、どこかの器官が壊れた残念な欠陥品に違いないね
こんにちは
朝起きてTwitterを見ていたら、大すきな『智恵子抄』の中の大すきな『あなたはだんだんきれいになる』が流れてきて、色んな思考がぶわ~っと巡り巡ったので、ザッとですがその考えを書いちゃおうと思ってブログにします
まずは詩の紹介から
あなたはだんだんきれいになる
をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽な生きものが
生きて動いてさつさつと意慾する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修行によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時時内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。
これ、ほんとにほんとに最高だと思います
病気で日々狂っていく智恵子を「きれい」っていう彼も、きっと周りからしたら極端に傾倒、陶酔する狂気を纏った妄想者だと認識されたと思うんだけど、そういう異様さの中にある美とその世界観、理解されない切なさと崇高さが、私はもう最高にすきです
閉ざされた世界で自分たちにしか分からない尊さを大切にするって行為は、私の中ではすごく神聖な行いです
例えば、私は綺麗なビー玉を集める子よりも、蟻の死体だとか穴の空いた靴下だとかをコレクションする子に惹かれます
汚い、不気味、不清潔、それらを低評価する言葉はいくらでもあると思うけど、彼らは理解者の少ない、もしくはいない世界の中で、大多数から見ると「不適切」だったり「異常」だったりするものの中に美を見出せる眼を持っていると思うからです
そういえば、私の大すきすぎる小川洋子さんも、小さいときに切った爪を大切に取っておいたみたいなエピソードがあったような記臆があるんだけど…違ったっけな(すきというわりにうろ覚えです、すみません)
パッと見ただけでは醜く見えてしまうものを見放さずに、ようくしっかりと見つめてあげて、奥に光る美しさを探してあげる、そんな慇懃な態度で世界と触れ合えるということ
それってとても素敵なことだなあって、私には思えます
私はそんな審美眼を持ったひとを本当に尊敬するし、素直に憧れます
高村光太郎の詩に戻る前に、もうひとつだけ関連した話を紹介させてもらえるとすれば、私は『堤中納言物語』に収められている、有名な「虫愛づる姫君」を思い出しました
(この話大すきです)
恐らく、多くのひとが1度は読んだことあるんじゃないかなあと思います
しきたりが固定化された当時の日本において、花や蝶といった一般的に綺麗なものではなく、気味が悪いとされる毛虫などを可愛がり、また、眉も抜かずお歯黒もしないひとりの小さな姫君のお話です
私はこの姫君も、皆が気づかない、物事や生き物に隠された、もうひとつの美に眼を向けられるタイプの人なんだろうと思っています
そして、彼女は周りには分かってもらえないこの尊さと己の信じる正しさを、決して手放さないひとです
姫君の言葉と私の恥ずかしい拙訳をいくつか載せたいと思います(現代語訳、大きく違ったら教えてください…)
「人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ」
→「人々が花よ蝶よと愛でることは、取るに足らない、見苦しいことです。誠実で、物事の本質をたずね求める人こそ、風情があるのです」
見かけの美しさだけにとらわれて、花や蝶を愛でるのは物事の本質を見切れていないことだ、と姫君は凛としておっしゃいます
私個人は、綺麗な見た目の花や蝶を愛することを「あやし」とまでは思わないけど、皆が気持ち悪がるものに対して「気づかれていないだけで、あなただってちゃんと美しさを持っているのよね。私は時間がかかっても、あなたのそれを見つけ出してあげたいの」って、寂しげな世界に寄り添って生きていける、その誠実さを尊く思います
「苦しからず。よろづのことどもをたづねて、末を見ればこそ、事はゆゑあれ。いとをさなきことなり。烏毛虫の、蝶とはなるなり」
→「いっこうに構わないわ。万事の本質をたずね求めて、その行く末を観察すれば、すべてのものには理由があるとわかります。(そんなことさえわからないなんて)たいそう幼稚です。(人々が気味悪がる)毛虫が、(行く末では皆が愛でる美しい)蝶になるのですよ」
これは世間体を気にする周りのひとに向かって姫が放った言葉です
ちょっと醜いアヒルの子っぽさがあるこの部分、姫は物事の「過程」に注目されてるんだけど、私は物事の「連続」について話そうかなと思います
少し戻って、風変わりなコレクションをするひとに惹かれるって話で、蟻の死体とか穴の空いた靴下、また小川洋子さんの切った爪の話を先ほどしました
私たちはその生き物の見かけの美しさに関係なく、死んだ途端「うわ、死んでる、こんなところにあるの嫌だ」って処理してしまおうとします
一般的な反応であることは私も同意するけど、本能的に「死」の中に恐れだとか不気味さだとかを感じているのかもしれないけど、さっきまで生きていた命に対して、あまりにぞんざいだなと思うときがあります
靴下や爪もそうです
多くの場合、ちょっと前まではお気に入りの靴下だったとしても、穴が空いたら価値ゼロになって(確かに実用性は劣るけども)、爪なんてさっきまで自分の一部だったのに、汚らしいものとして捨てられてしまいます
ものでもひとでも、そんな簡単に美しくなくなったり、縁を切りたくなったりするものなのかな
死ぬ前と死んだ後、穴が開く前とその後、切られる前と切られた後、どれもまだしっかりと繋がりのある「連続」の一部だと私には思えて、そんな簡単に汚らしいものに変えてしまわないでほしいなって、思っちゃうんですよね
姫君は「この毛虫だって将来蝶になるんです」って訴えかけるけど、同時に私は「この死んだ生き物だって、さっきまでは皆がちやほやしてた命なんだよ」っても言いたい
そんな簡単に見捨てないであげようよ、って思います
ひともものも、不必要だから、もう美しくないから、って切ってしまうのは悲しいことだし、一瞬でそんな大切なことを決めてしまっていいのかな、決めてしまいたくないな、って思うんです
私は、せめて時間をかけたいなって思う
丁寧にそのひとやものときちんと向き合って、どんなに無価値、汚らしいと感じてしまうとしても、自分が見落とした価値や美しさは何だろうって悪あがきしてから、接触を続けたり、最悪繋がりを絶ったりしたい
いやパッと判断して捨てるものは捨てなよ、って言われるかもだし、事務的なものはパッパッと即決しちゃうタイプだから「え、意外とそこ踏み切れないんだね」ってびっくりされそうなんだけど、私は案外優柔不断だし臆病なので、そんなあっさりと何かを捨てるって行為は苦手なのです
話を「虫愛づる姫君」に戻します
「思ひとけば、ものなむ恥づかしからぬ。人は夢幻のやうなる世に、誰かとまりて、悪しきことをも見、善きをも見思ふべき」
→「考えてみれば、どんなものでも恥ずかしいなんてことはありません。夢幻のようなこの世の中に、誰がいつまでも死なずにとどまり、物事の善悪なんて判断できるでしょうか、いえ、そんなことは誰もできません」
本当にそうだなと思います
すきなものや綺麗だと思うものには、さっき言ったように何かしらの理由があって、それを恥ずかしがる必要なんて絶対にない
私も昔から趣味が古臭いって軽く貶されたり時には否定されたりしたけど、私は恥ずかしいとは1度も思わなかった
悲しいとは思ったけど寂しくはなかったです
ただ、いつかわかりあえる人がひとりでもいたら、きっとラッキーなんだろうなあ、早く会いたいなあ、とは思いました
まあ私は渋いとはいえわりと王道モノがすきで、趣味が合うひとなんてごまんといらっしゃると思ってるから、自分をそんな悲劇のヒロインぶるつもりも、これらの魅力をわかってあげられるのは私だけなんですみたいな勘違い甚だしいアピールするつもりもないんですけど、やっぱり同世代になかなかすきなものを共有できるひとが少なかったから、悲しかったのかな
気づけば、高村光太郎の詩から「異様さの中にある美」について書いてたのにいつの間にかとてもパーソナルな話になってますね(笑)
わかりあえるひとがいたらなあとか言うわりに、慇懃無礼な態度で文章を書いてしまってすみません
総じて言いたいのは、多くのひとが敬遠する異様なものの中に美を見出せるひとの希少性や崇高さです
高村光太郎の『智恵子抄』なんて、言ってしまったら狂気的かつ妄想的な惚気集です
私はこの詩を「深い愛だね」とかで済ませたくないんですよね
なんか、そんな透き通ったものじゃないと思う
狂気と退廃の、くすんだ世界の中で彼が慈しんだ、ほんの少しの光とか澄みきった何かがささやかながら生きているのが、私は良いなと思うんです
だんだん狂って、機能を失っていく智恵子に美しさを見出せる、その審美眼が何よりもすきです
きっと他のひとは理解できないし、もしかしたら本当に彼らふたりが異常なのかもしれない
それでも、彼は智恵子の狂った美にとことん惚れ込んで、誰にも見つからないまま死んでしまうかもしれなかったその原石を光らせることができた
ああなんて神聖で尊いんだろうって思う
きれいだね
狂っていくほど、何かを失うほど、智恵子はだんだんきれいになる
智恵子はきれいだ
智恵子はきれいだって言える高村光太郎もきれいだ
こんなにきれいなふたりが理解されないなら、おかしくなってしまった智恵子と彼だけがまともで、多分残りのひとたちはひとり残らず、どこかの器官が壊れた残念な欠陥品に違いないね
お わ り