夏の幸福はあまりにも鮮やかだから、隣にいる大事な友達の脳みそにも、ずっとその色や匂いが残ってくれたらいいなあと思っていた

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こんばんは

 

2月以来おやすみしていたブログを、本日より復活させていただきます

 

書き方も忘れてしまうくらいご無沙汰していましたが、今の私は今の私なりに、またマイペースに更新していきますので、読んでくださる方がいらっしゃったら、よろしくお願いいたします

 


さて、先日、恵文社一乗寺店で「世界をきちんとあじわう」ためのトークイベントが行われ、友人の誘いを受けてありがたく私もご一緒させてもらいました

 

このトークイベントでは、普段、ひとが誰かに見られていることを意識していない視点や行動、ものの使い方に秘められた不思議を見つけて、その不思議を大切にしたいという思いが伝わる、私たちと密接な話題が盛りだくさんで、とても楽しい時間を過ごすことができました

 

今回私が書こうかなと思うのは、このトークイベントの終わりに質問コーナーで話題になった、日常についての話から生まれた考えです

 

日常は学問にならないのか、という質問に対して、日常には結論が不要だから学問にすべきじゃない、という考えが述べられました

 

確かに、まとまってなくていいし、どんな形でもいいし、形なんてなくてもいいし、正誤という枠に入らないし、そのひとの個人単位での日常って、わざわざ可視化するものじゃないんですよね

 

「結論が出た瞬間、それは日常じゃなくなってしまう」という言葉は、ああ痛いほどに真実だなあと思えました

 

そして、トークイベントから数日経って私が思ったのが、「幸福」も同じだな、ということでした

 

私は今まで、自分が幸せだなあと感じたことは、ひとに伝えたくて伝えたくてたまらなかった

 

あなたのおかげで今日私は本当に楽しくて楽しくて仕方なかったですだとか、ずっとここにいたいなと思いましただとか、そういうことをどうにかして伝えたくて、でも少し気恥ずかしいような気もして、言葉は難しいなあなんて思っていた

 

でも、本当は、私の意志なんてちっぽけで、そもそも不可能なんだって、ほんの数日前に思ったんです

 

本当に幸福だと、言葉って出てこないなあって

 

かと言って、沈黙だとか、態度だとか、表情だとか、そういうものも同じくらい不完全で、幸福って別の形に置き換えることができないものなんだって思いました

 

きっと、幸福は誰かに伝えるためじゃなくて、私ひとりが、大事に大事に噛み締めて、自分の中で守っていくものなんだと思う

 

感謝や謝罪は、相手に伝わるように、慎重に丁寧に言葉を選んで、態度を改めて、全身で表現しなくちゃいけない

 

でも、幸福は、誰かに伝えるために表現してしまったら、結論が付随した日常と同じで、瞬く間に泡のように消えてしまう

 

幸福という中身を失ってしまう

 


伝わればいいなとは思います

 

もっと欲を言えば、私に幸福を感じさせてくれたひとが、私と同じ理由で幸福を感じてくれたらいいのにな、なんておこがましいことも思ってしまいます

 

でも、精いっぱい伝えるので私の幸福を知ってくださいっていうのは、少し違うような気がした

 

私にしかわからないから幸福なんだし、自分の幸福を伝えることばっかり考えていたら、相手が見えなくなってしまうようにも思えたから

 

もちろんそんなこと言っても、伝わればいいなの気持ちがなくなるわけではないんですけどね(堂々巡りじゃんかい、という感じですが)

 

でも、その思いが残っているのは同じでも、自分しか知りえないこの感覚を大切にできるのは私だけなんだぞって思えることで、今しか感じられないこの多幸感を、このやわらかさを、この心地よさを、一生思い出せるようにしっかり覚えておこうって、身体全体に染み込ませて、心いっぱいに満たしておけるような、そんな気がしてくるのも、また事実だと思うんです

 


個人的な話ですが、なんだかこの夏は幸せすぎてどうにかなっちゃうんじゃないかなって本気で思う日ばかりでした

 

私は楽しかった日は遠回りして帰ることにしているんだけど、本当にその頻度がとんでもなく高い夏を過ごしています

 

この一週間なんて、毎日遠回りして帰っちゃったくらい良いことがたくさんありました

 

毎日毎日、その日が終わってしまうのが惜しいなんて、なんて恵まれているんだろうね

 

京都の夏は厳しいから、今年も暑さに溶けちゃうかなあと心配していたけれど、暑さに溶ける前に、幸せの過剰摂取でとろけてしまいそうです

 

そりゃあ、寂しいことも名残惜しいこともあります

 

ただ、そんな気持ちになれることも含めて、幸せな夏だなあなんて思えるくらいには、ゆったりとした気持ちで夏を過ごせているなと思います

 

ちょっと話が逸れましたが、この一週間そうやって遠回りして帰る中で、明らかに昨日の帰り道は風の感じ方が違いました

 

秋ってほどじゃなくても、今までの夏とは違う空気が流れていて、今年もちゃんと礼儀正しく季節が巡り巡っているんだなと嬉しく、そしてほんの少し寂しくなる、そんな温度に包まれる帰り道でした

 

きっと今からすぐ秋めくわけではなくて、まだまだ暑い日は続くだろうけど、永遠に思える夏が終わらなかったことなんて、今までただの一度もなかったなあって、夏がまた去っていく準備をしているんだなあって、少ししんみりなんかして

 

当たり前のことを忘れさせてしまうくらい、夏は特別な季節なんだよね

 

夏の幸福はあまりにも鮮やかだから、隣にいる大事な友達の脳みそにも、ずっとその色や匂いが残ってくれたらいいなあと思っていた

 

でも、そんなことは贅沢すぎるお願いだということもわかっていて、だからこそ私は、幸福をきちんとひとりであじわいたいなあと、そう思うわけです

 

そもそも、世界をきちんと「あじわう」という動詞から見ても、世界とか日常とか幸福とか、個人単位での視点で感知するものはひとりで受け止める対象なんだろうね

 

誰かと一緒に「あじわう」ことはできない

 

そのことに寂しいと思えるのだとしたら、それはあなたにとってとびっきり特別なひとがいるからで、決して悲しいことではないんだって、思ってくれたらいいな

 

ただ、自分の幸福を自分があじわうことをしなかったら、その幸福は行き場を失ってしまうから、きちんと、大事に、手のひらに包んであげたいなって、そう思えたら素敵かもしれないね


そして、こういうことを考えている私の脳内に蘇ったのが、星野源の曲で私が一番好きな、Friend Shipという曲です

 

懐かしさが染み込んだやさしいメロディーに合う歌詞が、すごくすごく好きなんですよね

 

以下はサビ部分の歌詞です

 

“君の手を握るたびに わからないまま
胸の窓開けるたびに わからないまま
笑い合うさま”

 

私たちはきっとどんなに触れ合っても、心を打ち明けても、どんなことをしてもお互いのことを伝えたり理解したりすることはできなくて、でも、一緒に笑うことはできて、それはすごくいいなあと思うし、奇跡だなあとも思う

 

私にとって大事な他人の幸福とも、こういうふうに付き合っていけたらいいなあと思う

 

わかりあえないからこそ、それでも一緒にいてくれる相手のありがたみややさしさが染み渡るんだもんね

 

幸福を分かり合えなくても一緒に笑ってくれるひとたちと、これから先もずっと一緒にいたいなあ

 

永遠にずっとは無理だけど、可能な環境にいる間は、ずっと、ずっと一緒にいたいです


今年は、学生最後の夏

 

確実に秋の気配をそっと漂わせながら、きっとまだまだ終わるつもりのない、そして私も終わらせるつもりのない最高の夏を、もう少し、大好きなひとたちと一緒に過ごして、贅沢すぎる幸福を、ひとつひとつ、きちんと、あじわおうと思います

 

ここまで読んでくださった慈悲深いあなたに、幸福がたくさん訪れる夏になりますように

 

お  わ  り