好き、なんていう整いすぎた言葉で、ぐちゃぐちゃな自分の気持ちを伝えるなんて、最低じゃないですか

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こんばんは

明日はバレンタインということで、バレンタインに告白する女の子について書いて、このブログをいったんお休みしようと思います

注意書きなんですが、途中で辟易して読むのをやめていただくのは構わないんですが(むしろこのページに来てくれただけで、ありがとうございますの気持ちです)、それだと私が勇気を出す女の子たちをひたすら否定して終わるみたいな印象になると思いますとだけ、先に書いておきますね(忠告しましたからねー!)




毎年バレンタインに、一体何人の女の子たちが「好き」と意中の相手に伝えるのか

なんてことが気になったとき、ふと、気づいたことがある

考えてみれば私は、他人に対して本気で「好き」と言ったことがない

おちゃらけていうことはあっても、真面目に本気で言ったことなんてただの一度もない人間を

もう21年も、やってきていた

LINEだとか手紙だとか、「言葉」しか希望がない手段というか、「言葉」だけにすべてを託す手段においては、スタンプでも文字でも「好き」って心から思って使うけど、そういった視覚化された「好き」と、一瞬の音として届ける「好き」はほんとに全然違うと思っている

具体的に言うと私はずっと

音としての好きって、厭だな

と思っていた

小学生のとき、先生も、クラスメイトも、年上のお世話係のお姉さんも、男の子も女の子も皆、私にとっては「好きなひと」だった

ところが信じられないことに、男の子から「好き」と言われて、私もその子のことが好きかを確認されたときに、どんなに「好き」でも、私の「好き」を「好き」という音で相手に返すと、その子との関係が変わってしまうらしいと学んだ

小学生の私は、あんまり簡単に好きって言ったらいけないんだな、好きって言葉はとりあえずやばいんだなと思った

だいたい、皆の言う「好き」は「手をつなぎたい」だとか「学校以外でもふたりきりで会いたい」みたいな意味らしくて、それは私の「好き」とは全然違ったから、ものすごく混乱したし、他者への理解が著しく欠けている私小学生ver.は、何じゃそりゃきみたちは宇宙人かいと結構ほんとに思っていたし若干の焦りもあった

好きって言葉って、そんなに大事かな

手をつなぎたいならそう言えばいいし、言うよりも実際つなげば良くないか

会いたいなら会ったらいいと思いますよはい

という感じと

全然わかんないな

私が異常で、間違っていて、

狂ってるんだろうか

みたいな感じだったんですね

しばらくすると私の脳みそは働き方を覚えて、「好き」が何を含むかは個人差があることを学ぶことができた

でも、学べたからこそ尚更、そのせっかくひとりひとり違う何らかの大切な気持ちを、なぜかくも暴力的に「好き」でまとめてしまえるのか、完全に意味が不明だった

もう意味不明だったけど、考えるのはしんどいことだから、しんどくなって、私はサボリ魔だから、せっかくの考える機会を放棄して、しかも直接ひとに聞くことはしなかった

代わりに本をたくさん読んだ

算数に公式があるように、多分「好き」にも何らかのパターンがあって、それさえ見つけてしまえば、ひとがひとから好きって言ってほしい理由を簡単に理解できるだろうと、勝手に決め付けて

もしまだ答えが発見されてなくても、私が自分でたくさんのパターンを整理して、答えを見つければ良い話だしな、というなめた考えすらあった

そんなこんなでもう少し年をとった頃、私は好きなひとから「おはよう」って返してもらうことって幸せだなあと思うようになった

周りにも「今日◯◯くんと話せた!」と意気揚々と話す子がいて、うんうん、話せるって嬉しいよね、と思っていたら、周りの女の子たちは「付き合いたいと思わないの?」「それだけでいいの?好きって言われたくないの?」と彼女を質問攻めにしていた

すさまじい衝撃だった

言葉にはプライオリティーが存在したんですね

自分の挨拶に反応して返してくれる、「おはよう」は、「好き」よりも何かで負けていて、何かの程度が低い言葉らしかった

だから、「おはよう」じゃ満足しなくて、「おはよう」よりも何かの程度の高い「好き」で相手の好意とやらが「真剣」で「本物」であることを確かめないといけないらしかった

好きって言わないと、言われないと、駄目らしかった












 

 

 



めんどくさ



 

 









正直、それ以外何も感じなかった

厭になった



当時、私は携帯を持ってなかったから手紙だけについてになるけど、LINEも同じなのでまとめると、相手の顔が見えなくて、声も仕草もわからない、さっきも言ったように言葉だけにすべてを託して相手に何かを伝えないといけない手段においてなら、そりゃ好きでも愛してるでも書くよ

でも実際にそのひとと会って、目を見て、目をそらして、喋って、黙って、時間を共有してるんなら、そのすべてで「好き」ってお前もあの子も伝えてるんじゃないわけ、それが1番尊いんじゃないわけ

せっかくの好きなひとから、お前は一般化された「好き」なんかが欲しいのか

AくんにもBくんにも、誰にでもできる愛情表現で好きなひとからの好意を受け取らないと気が済まないのって、何だよ、それ何の遺伝システムだよ

自分を見つけてくれたときにパアッと笑顔になって嬉しそうにしてくれるとか

一緒に歩くときに歩く速度を合わせてくれるとか

外に出たとき「寒いね」って一言声をかけてくれるとか

緊張して話せなくなって目もそらしてしまうとか

そういう、そのひとにしかできない「好き」は全無視か

とどこかひねくれている私は思っていた

というか

本当にシンプルに、厭で厭で厭で仕方なかった

主観的でしかないのは承知だけど、私は1度もレベルの低い会話としてなんか「おはよう」をとらえたことなんてなかった

毎日全力だったし毎日本気だったし毎日



皆の言う「好き」を「おはよう」の言葉と、

それ以上に私っていう人間で、まるまる伝えてるつもりだった



私の頭の先から足の先までの思いを、暴力的に「好き」でなんかまとめたくなかった

誰でも言えるだろそんなん

だから、「好き」って言ってほしい、を理解したことがない

何で、好きとかすきとかスキとかsukiとかが、必要な、わけなの、ですか、ね、ね、ね?



ワタシノコトスキ?ボクノコトスキ?

っていうのは、言葉に溺れて脳みそをやられたひとが言う台詞で、「あーこの症状はこの病の最大の特徴ですね」ってお医者さんが言うやつだと、まあ思ってたわけだ

好きって聞かないと不安になるとか、どれだけか弱くて可愛い生き物アピール?とかね

思ってました


今も、私は誰にも、別に好きって言ってほしいなんて、思わないし思えない

言ってほしくないわけじゃないんだけど、言ってほしい!言ってほしい!ってはならない

私なんかにそう言ってくれるひとには、ありがとうって、いつも返してはきたけどね

軽蔑とは違って、ほんとに、わけわからなすぎて多分混乱してるだけだから、攻撃してるんじゃないんだって、それだけは言わせてくださいね

むしろ私は皆みたいに、誰かに好きって言ってほしいっていう感情を、知りたいよ


そして、でも、バレンタインはまた別だって、今日は言おうと思ったんです

多くのひとは、好きなひとをいわゆる恋人にしたいんですよね

で、恋人って付き合ってるひとじゃないと、だめなんですよね

頭おかしいと思われるかもしれないけど、付き合ってない恋人が存在しないのも、なんか堅苦しくて息苦しい世界だなと思うよね (ね、って言っていいか分かんないけど)

よく理解できないけど、でも、こういう理想のために、頑張って、改めて「好きなんです」って相手に伝えるのは、実はすごくすごく、素敵なことなんだなって、私は思えるようになりました

全身でもう好きってすでに伝えていて、相手も似た感じの気持ちをいろんなところに散りばめて示してくれているかもしれなくて、でもそれをあえて「好き」って言葉を合言葉に変えて伝えて、理想の「恋人」って関係をきみもあの子も手に入れたいわけで、それは、なんだか、すごく可愛くて微笑ましい

チョコをあげる、って行為も「好き」の表れで、そう考えると音としての「好き」はなくても良いけど、世に言う告白としてチョコを渡す子からすると、全身全霊で、その2文字に自分の思いを託すんだよね

ほんとはいろいろ言いたいことも伝われば良いなという感触や感情もいっぱいあるし、目でも指でも肩でもそれは伝えられる状況なのに、言葉っていう普遍的で1番薄くて弱くて脆いもので、伝える

なんて頼りなく、なんて美しい行為


「おはよう」のほうが言いやすい

毎日言ってきたもんね

自分がどんなに「好き」の意味で言っていても、伝われって思っていても、心のどこかでは「相手はただの挨拶だと思ってくれているはずだ」って、だから、ちょっとずるいやり方だけど、こうやって「好き」を隠れてこっそり伝えていこうって、きっとほんとは私も思っていた



好き、は言うのが難しいね

だって、好き、はそのひとと関係を変えたいって、すごく思い切ったことを伝える言葉らしいからね

でも

好き、なんて言葉をうまく言えるかなんて、多分そんな大事じゃないよ

言えなくても、言えても、言いたい気持ちは一緒だし、伝えられると思う

「おはよう」とか「寒いね」とかと同じで、私は言葉にプライオリティーなんて、ないと思うんです

好きって言葉が大事なんじゃなくて、きみがその子に好きって言いたいと思った、だから好きって言った、噛んじゃったけど言った、あまりうまく言えなかったけど言った、いざとなったら怖くなってちょっと違う言葉になったけどそれっぽいことを言った

その、つながりみたいなものがきっと、1番大事だと思うわけです

だから、頑張ろうとしているひとたちは、自分の中の感情と行為がつながったというそれ自体を誇ってあげて良いんじゃないかと私個人は思うし、自信を持って言葉にしてあげてねなんて、生意気に思っているんですね

 


ほんとに、ほんとに、

好き、なんていう整いすぎた言葉で、ぐちゃぐちゃな自分の気持ちを伝えるなんて、最低じゃないですか


でも


本当に嬉しいときとか、愛おしいときとか、幸せなときって、人間、綺麗な言葉でしか、話せなくなっちゃうよね

純度100%の感動とか幸せなんてね、その整いすぎた言葉で形容しても不十分なくらい、キラキラ眩しくて綺麗な感情だよ

だからひとは、綺麗な言葉で足りない部分を少しでも相手に伝えたくて、泣いちゃったり、笑っちゃったり、するんだろう

感極まって、全身で、好きとか、嬉しいとか、ありがとうとか、言える相手がいるって、最高だと思います


バレンタインなんて、ただ最低で最高なだけじゃん

 

 

最後に

去年の最後の記事で、言葉がまがいものでも何か伝えたいことがある相手に一所懸命言葉を選んでいることを私は自分の誇りにしたいと書いて、それは今も、変わらない

だから、もしかしたら、関係を変えたいと思えた相手にそう伝えなくちゃと思い立つような日が来たら、私だってその2文字を音で、自分の声で、言うかもしれないんだな、なんて思った

私は心がぐちゃぐちゃだし、不整合な気持ちだらけで器官に異常が出てしまいそうですが、

それでも、

そんな私でも、

自分にとって大事なひとに大事なことを伝えるときくらい、綺麗な言葉を届けたいと思うし、そのときがきたときもきっとそう思えると、信じてます


まあ、今のところ私の愛は売り切れてて再生産の見込みはないんですけどね

23歳とか24歳で、身を焦がすような恋のひとつくらいしたいかな


火傷したいね

できたら全身



冬もこの記事ももうすぐ


お わ り