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まがいものでも、この感情を伝えたいなあと思える相手がいるなら、自分が言える範囲で良いから、真剣に、限られた言葉を使って、届けたいと思えるんじゃないかと、言いたい

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こんばんは

昔からひとに自分の気持ちを伝えるのが苦手で、成長するにつれてそれにこじつけのような理由をつけることすらできるようになってしまって、そういう考えをしていた、そのときにしかいない自分が私はとても好きだけど、好きになれないときもあるから、誰かに好きとまで言ってもらおうなんて思わなくてもいいねとか面白かったとか言ってほしくて、文章を書くのかなと思うときが増えました

って話を今日はします

好きという感情はあまりに爆発的だけど、それ以外の嬉しいとか悲しいとかも含めたすべての抽象的感情を自分以外のひとに伝えるのが私はどうも怖かったし、後々億劫だと思うようになってしまっていました

最初は悲しいとか悔しいとかのマイナスな感情を言うのが怖かった

どんな理由があっても、悲しいって言われたら、それで泣きでもされたら、相手は困るだろうし、私も恥ずかしいやらなんやらでトラウマになるかもしれなくて、言えなかった

そして泣き虫という概念を知ったとき、もっと言いたくなくなった
周りのそう言われてる子たちが悲しいとか辛いとか言ってるのを聞いて、「私はそんな程度のことで泣き言は言っちゃいけないと思ってやってきた」なんて傲慢甚だしいことを思った
私のほうが根はうんと泣き虫かもしれないけど、少なくとも人前で泣かないよう我慢してるんだぞ、と
もし私が悲しいって言ったら、他人にわたったその瞬間に、私の感情はこんな程度の悲しみにまで萎んでしまうのかって、それは私の悲しみに対する冒涜だろうと生意気なことを思った
まるで自分が1番我慢してきた人物であるような、そしてそれが勇者の証であるような自己陶酔状態で、ひとの悲しみをランク付けして、独断で私の悲しみこそが悲しみとしてふさわしいんだと思い上がっていました

でも同時に、悲しいという言葉の枠組みの中だけに、渦巻くたくさんの感情を落とし込めることができなくて、じゃあやっぱり「悲しい」なんてひとつの言葉で言い表したくない、とも思っていたから、本当に一貫性がないというか我が儘というか身勝手というか自分しか見えていないというか

でも実際そうなんですよね

百歩譲って「悲しい」と言ったとして、私が悲しいと言ったのは事実だけど、その分言葉にされなかった感情があることもまた事実なんだと知ってほしいと思っていた

むしろ後者の方が断然に多くて、もやもやだったりズキズキだったりチクチクだったりそういう擬音語にすらなれない感情を全部押し殺して、無情に殺して、たくさんの犠牲を払って、「わかりやすい」悲しいという言葉を不平等に選んでいる

私は本当にずっと、口にしていない言葉を誰かに聴いてほしかった

言わないと伝わらないだろうなんて言葉は聞き飽きていて、言えないから、言葉に退化させた一般的な感情の名前をつけられないその感情を丸ごとそのまま気づいてくれないかと願っていた

で、

無        理        だ        と諦めた

そりゃそうだよなあと思う
私の感情は私だけのものだし、私だって誰かが見せることを遠慮した感情をきちんとすくい上げることなんてできないんだし

そう思っちゃったら、嬉しいとか楽しいとかも、更にはかなり濃度の高い感情「好き」なんてもっと、伝えるの無理なんじゃん不可能なんじゃんわかってもらえないじゃん、と諦めてしまいました

例えば「好きなひとにプロポーズされて嬉しい」の「嬉しい」が、相手に「道端でどんぐり拾えて嬉しい」の「嬉しい」として捉えられることだってありえるんじゃないかと思います

これは別に小さいときの私が考えたような、どっちの方が程度が上とかレベルの高い嬉しいかとかじゃなくて、違う「嬉しい」に変換されてしまうことを受け入れられない、っていう話

同じ「嬉しい」の中で差異が起きるのはまだ恵まれているほうで、「僕らの喜びを誰かが悲しみと呼」ぶなんてこともあるんだから、本当になんて世の中なんだと打ちひしがれたくなってしまうのは私だけですか

感情を正確に伝えるのは無理だよね

そもそも感情を言葉にした時点でそれは嘘なんだし

嘘というか、まがいものというか

言葉は本物にはなりえないんじゃないかと、たまに思ってしまうから、だから誠実に言葉を贈られたときは自分のひねくれた考えがどうしようもなく嫌いになって、こんな素敵なひとは自分には釣り合わないと思ってしまう

言葉なんか嫌いだと叫びたくなる

手紙はもらったら1番嬉しい贈り物だけど、相手の誠意が見えるほど自分が不甲斐なく感じられる1番の凶器にもなるんだなあと、そういう考えが嫌なのにやっぱりやめられないしもう嫌だ

なんてことになる

共感されたくて文章を書いたことなんでも一度もなかったって最果タヒさんは書いていて、タヒさんはすごい、私には無理だと思ったんです

今まで他人とコミニュケーションを取ってきて、無理だと思ったのに、諦めたと思ったのに実はそう思った気になっていただけで、「別に誰もわかってくれなくて当然だし」って口では言ってても、やっぱり本当は誰かにわかってほしい

でも私が思った通りには伝わらないから、だから面白いんだと、伝えがいがあるんだとしても、求めてしまう諦めの悪さが、私にはあるんだと思います

映画レビューも自己満とか言ってるけど、いやまあそのこと自体は否定できないんですけど、自己満=読んでもらわなくたっていい、ではないです

やっぱりいつも、誰かが何か思ってくれたらいいなあと思う

だらだら長文書いてるなあとか、面白いなとか何でもいいから、何かを思ってくれたらいいなあ、と読むひとのことを考えて書いています

そうしたらほら、やっぱりわかりやすくって観点からいくつもの感情を捨てて何かひとつの言葉に託すわけだから、そういう多くのひとにわかる内容に仕上げてる自分が嫌になったりもする

本当にしてた

書けば書くほど嘘だなと、誰でも書ける文章を書いてるような、私からどんどん離れていく言葉を書いてるような気がしてた

わかってほしいなんて思っちゃだめだと思った

でも、最近は、実は、それで良いのかもしれない、と思えてしまう

読み手を想像して書いて何が悪いのか、聞き手を想像して話して何が悪いのか、むしろあるべき姿なんじゃないかと

言葉がまがいもの、っていうのも、まがいもの上等じゃんと思えるようになってきた

だってやっぱり、悲しいって言葉が与えられるまでその感情は悲しいなんかじゃなかったし、悲しいって言葉になることでふるい落とされた感情は、もしくは部分的感情はきっとあると思う

でも、言葉は感情(だけではないけど)を伝える道具なんだから、本物じゃなくて当たり前なんだよね

まがいものでも、この感情を伝えたいなあと思える相手がいるなら、自分が言える範囲で良いから、真剣に、限られた言葉を使って、届けたいと思えるんじゃないかと、言いたい

たとえ私が自分自身を貶したくなくてそう思い込みたいだけだとしても、届けたい気持ちがないわけじゃないなら、胸を張って「私は一生懸命伝える努力をしています」って、言いたい

聴いてくれるひと、読んでくれるひとがいるのは、ものすごく恵まれているからこそで、とても幸せなことだと思う

言葉という与えられた道具は皆同じなんだから、だからこそ誰より丁寧に言葉を使うとか、どんなささやかな日本語も蔑ろにしないとか、そういうことを徹底していきたい

あんまり語彙力もないし説得力のある書き方もできないけど、でも私は絶対に誰かに言葉を贈るのに投げやりにもならないし、その場しのぎのあしらいだってしないし、常に、相手にも、言葉にも、自分の感情にも、きちんと敬意を持って接し続けられるんだってことを大切にしたいです

生半可な気持ちじゃ、言葉は、剽窃になったり二番煎じになったり空っぽになったり、ただのつまらない無意味な塊になる

でも、ひとつひとつに心をこめれば、まがいものでも誠意を持ってつなぎあわせれば、時にはそのまがいものが、誰かに本物の感情を気づかせるかもしれない

そう信じられるから、やっぱり私は、言葉が好きです

大好きです

お わ り