君がほんとはひとに好かれるべきひとなんだって

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こんばんは

書評の最初の書き出しにもんもんとしてるので私がここ最近感じることについて書きます(いや頑張って考えろよって感じですけど笑)

最近思うというそれは、主観的なのは承知で、多くのひとが、ひととの関係性を簡単に諦めすぎなように思うということです

そして私が思い出すのは、私が大好きな大好きな、もうほんっとうに世界で最高の小説のひとつだと信じてやまない”The Great Gatsby”の一節です

Reserving judgements is a matter of infinite hope.

いきなり私の見解を述べるのもなんなので、翻訳家たちの訳を載せておきます

断定的に割り切ってしまわぬということは、無限の希望を生むことになる(野崎孝

判断を保留することは、無限に引き延ばされた希望を抱くことに他ならない(村上春樹

この部分の訳、個人的には日本語にすると逆に解釈しにくいイメージなんだけど(笑)、でもそれとなく噛み砕くと、

他人を「こんな人だ」なんて判断せずにいることは、そのひとに失望せずにいられるということで、失望しなかったらそのひととの関係性を諦めないでいられるわけで、そうしたらそのひととの可能性が消えないっていう希望を表してるんだよ

ってことだと思う

うーん、分かりにくいかな、めっちゃ私の中で完結してる感あるですね

他人を判断する、もっとズバッと言うと格付けするのを見送れば、変なイメージでしか他人を見れないこともなくて、ふたりの関係性や可能性って希望がありつづけるよね、という感じかな

なんかちゃんと言い換えられてるのかられてないのかわかんなくなってきました(笑)

でも、この希望を簡単に自分から手放しちゃうひとってわりと多いのかなって思います

自分を棚に上げて判断ばっかしてね

思い切ってちょっとここから口調きつめに言っちゃうと、自分を何様だと思ってるんですかってことです

「見かけで判断しないでほしい」
その誰かさんを「見かけで判断するひと」って判断してるのは誰ですか

「あのひとに話してもどうせ私の話聞く気ないから意味ないよ」
そのひとが聞く気があるかなんてどうでもいいけど、話す気がないのは誰ですか

「私はちゃんとああ言ったのにあの子が分かってくれなくて」
理解してないって言葉でその子を悪者にするのは卑怯だし逃げでしかないと思います、ちゃんと説得できなかったのは誰ですか

「見かけで判断するひと」「話を聞く気がないひと」「理解ができない馬鹿な子」

たくさんの側面があるひとをこんな言葉で片付けちゃうなんて

何様のつもりでいるんですか
自分が誰かの価値を決められるくらい価値ある人間かなんかだと思ってるんですか
何を基準に他人をそんな簡単な言葉でくくってるんですか
そのひとのひとつやふたつの局面を知ってるだけのくせに、それがそのひとを表すすべてだとでも思ってるんですか
たとえ百や千の局面を知っていようが、そのひとのすべてを分かったり知れたりするわけないのに、思い上がるのもいい加減にしたらどうですか

って私は思います思ってしまいます

なんかめっちゃ怒ってるみたいだけど、別に私怒ってはなくて、ただもうほんとに残念だなあって思うんです

他人をこんなひとだ、なんて決めつけないであげてね

あんなこともできないひとだ、なんて言わないであげようよ

それぞれ得意分野、苦手分野があるんだし

確かに君は何かにおいてあのひとより優れているかもしれないけど、あのひとのほうが君よりうまくできることだってあるんです

確かに君が求めたことをそのまましてくれないひとだっているかもしれないけど、でもその彼や彼女がしてくれたことだって絶対にあります

彼らができないことを君が、君じゃできないことを彼や彼女がしてくれてるんです

「いや、してないね」なんて言ってるお前は濁ったその汚い目をさっさと洗いに行くか潔く摘出でもしろ

ああほんとに
もったいないと思う
あのひとはこんなひとだからもう関わるのやめよう、とか言って、そのひととの可能性捨てちゃうのもったいない
非の打ち所のないスーパーマンも、何ひとつできない役立たずも存在しないんです
皆それぞれできることとできないことがあるんです

なんだか私の持論押し付け記事みたいになってるけど、誰かをダメなやつって判断したくなったときはちょっと自分よくないぞって立ち止まってみるといいと思う

確かに寝坊したのは良くないし、
約束破っちゃったのも良くないし、
悪口言うのも良いことでは決してないし、
きっとその子にも直すべきところはたくさんあるけど、そんなの皆一緒だし
欠点ばかり取り上げるのはやめよう
ひとをそんな簡単に嫌いにならないであげよう

嫌いなひとがいるひとはそれだけ他人に嫌われています

他人に愛想を尽かしてるひとは、自分だって周りから愛想を尽かされています

いちいち他人の欠点にばかり焦点を当ててひとと付き合ってそのひとたちとの関係性を諦めてたら、君はいずれ世界中のひとを嫌いになって、せっかく良いところもたくさんある君が世界中から嫌われて、ひとりになってしまうだろうけど、私はそんなの嫌だし、君がほんとはひとに好かれるべきひとなんだって、世界中のひとに教えてあげたいよ

「甘い」と「寛容」は違うよね

不完全な人間だから頑張ってるのに、「あの子はこんな子だからどうせだめだ」とか言うの、失礼だと思わないのかな

1度や2度の失敗でそのひとを切り捨てるなんて、横柄だと思わないのかな

そんなひとって、まさか自分自身も含めて、人類は何でもかんでも器用にやってのけられるスーパー生物なんて思ってる?

もちろん失敗しちゃいけないことだってあるし、その子が反省する必要がないなんて言わないけど、死ぬほど反省でもなんでもしたらいいと思うけど、その失敗で君が死ぬわけでもないんだし

死んじゃったなら、うーん、それは困るんだけど、そのひとに呪いでもかけたらいいんじゃないですか
死んだらそんな力も持てるかもしれないし

他人の失敗でそのひとを見限っちゃったら、死ぬのはそのひととの関係性、可能性のほうです

それでも、誰かの失敗やちょっとした一言とかでそのひとを切り捨てないで、そのひととの関係性を守りたいって思うのはそのひとに対して「甘い」のかな

言いたいのは、ひとのことをあれこれ言う前に自分が「寛容」になるよう努めてみようよっていうただそれだけのことです

でも、自分だけそんな立場取って他人に寛容でいたら不平等だって思うひともきっといると思う

いろんなひとと出会って話して思うのは、私も含めてひとはどうしてもフェアを求めたがるってことだけど、なら尚更、

他人から判断されたくないなら自分もひとを判断しちゃいけないと思う

私は自分勝手だから、別にたいそうな考えを持ってるわけではなく、自分がされたくないことはひとにしないってだけなんだけどね

っていうか、ひとのことは格付けしといて「私のことそんなふうに決めつけないでよ」とかひとに求めるなんてお門違いもいいとこというか、生意気すぎると思う

そんなひとには、なりたくないもんね

人に嫌われちゃうとかじゃなくて、自分がされて嫌なことはしない

もちろん私だってひとから嫌われたいわけじゃないから、嫌われるようなことはしたくないなって気持ちがないわけではない(笑)

ただ別に全員から好かれようって思って何かするわけでもないし、嫌われてもいいんだけど、わざわざ自分から嫌われるような生き方をしなくてもいいと思う

で、根本としてあるのはこんな自分は嫌だなってのがあってひとを判断なんかしたくない、するべきじゃないと思ってる

ひとつの考え方としてだけど、ひとを批判しないでいられるっていうのは他人から嫌われないとかの損得を超えて、自分が好きな自分でいられるひとつの要素だと思うんです

シンプルに、マイナスな感情ばっか持ってたら自己嫌悪になると思うし疲れるし

私は疲れることは嫌だからね

他人を判断する前に他人を割り切ろうとしてる自分を見直すのが大事だと思います

諦めないでいてあげてね
自分も他人も

無限の希望を自分の手で押しつぶしたりなんかしないでね

君もあの子も嫌なあいつも、尊いのは命だけじゃないです

世の中のひとというひとを格付けして嫌いになっちゃったひと、もう手遅れだって思ってるひと、そんな無謀なチャレンジしてオンリーワンの孤独を味わうような冒険者の君を、少なくとも私は好きだから、安心して戻っておいでね

やり直せばいいと思うよ

君がどんな最低な奴だったとしても、どんな人間「だった」のかなんて、ぶっちゃけ、正直、少なくとも私は、どうでもいいし

お わ り

どうか1番外側のマトリョーシカじゃありませんように

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こんばんは

体調を崩してひたすら寝てたんですが、意外と起き上がってるほうが楽なので今日は私の思う優しいひとについて書きます

内容的に、そして私のコンディション的に、多分この記事の口調も多少優しくなると思います(笑)

さて、私の思う優しいひとは、私と仲良くしてくれるひとです

なんて主観的な、なんて単純な、って言われるかもしれませんが、本当に本当にそう思います

私と仲良くしてくれるひとは「僕、私は優しい人だぞ~!」って世界中に自慢してほしいくらいです

あ、いや、やっぱり私が言いふらしたいのでだめにしよう

あ、いや、そんなことしたら皆が私の好きな優しいひとを取っちゃうからやっぱり言うのやめとこう

私と仲良くしてくれる、の仲良くするってどこからを指すんだって言われると思うのですが、これ言っちゃうと優しいひとが特定されちゃいそうなので、ごめんなさいだけど秘密ね、内緒

私はあまのじゃくなのでそのひとたちには多分「あなたたちが私の思う優しいひとですよ」っては伝えないからね(笑)

とにもかくにも、小学校からの付き合いのひともいれば最近知り合ったひともいる、その優しいひとたちは、私よりずっとずっと良いお友達がいるにふさわしいひとたちで、世界にはこんなわがままで扱いにくくてよくわからない私よりも良いひとがいっぱいいるって知ってて、その上で私と仲良くしてくれるから好きなんです

もし私しか友達がいなくて私と仲良くするんだったらまた意味合いが違うけど、いろんなひとたちを知ってて、もう何をどう見ても聞いても考えても付き合いにくい私と会ってくれるなんて、もう優しいという言葉じゃ意地悪すぎるくらい優しいなあと思います

私は優しいひとが好きです

優しいひとは、私といるときには、いつも私がいるポジションに立ってくれるひとです

私がいつも聞き手だとしたら、優しいひとは私といるときに私を話し手にしてくれます

私がいつも慰める側だとしたら、優しいひとは私といるときに私を慰めてくれます

私がいつも褒める側だとしたら、優しいひとは私といるときに私を褒めてくれます

そしてそれを誰にも言いふらすこともなく黙っておいてくれます

私があんまり他者を恨んだり羨ましがったりしないでいられるのは、そういう優しいひとたちがたまにわたしが諦めきれないでいるそれらを与えてくれるからだと思います

きっとひとっていうのは基本の構造は一緒で、皆寂しがり屋だし泣き虫です

そしてそのアウトプットの数や頻度を基準にこの層のひと、あの層のひとって分かれてる、重なってる

たとえば

すんごい泣き虫なひとがいて、

その泣き虫なひとを慰める誰かさんがいて、

その誰かさんを慰める私がいて、

そして更に私を慰める優しいひとがいて、

っていう、マトリョーシカみたいな、内側のひとが外側のひとに守られてるような構造だと思う

少なくとも私はそう思ってるから、いつも私の思う優しいひとがどうか1番外側のマトリョーシカじゃありませんようにって願ってます

あんなに優しいひとが誰からも話を聞いてもらえなかったり、慰めてもらえなかったり、褒めてもらえなかったりしたら、ほんとにこの世界は悪だと思うよ

無情です、無情無常ムジョウ

もし、地球が壊れちゃうから限られたひとたちだけが宇宙で生き延びられるチャンスを与えられるとしたら、その優しいひとたちが選ばれるべきだと思うけど、きっと彼らは優しいから、欲深いくだらないひとたちにその権利を譲ってしまって、その肩書きだけ立派な「人類代表」とやらが宇宙に旅立って、下等生物として人類の名を宇宙に知らしめるわけだ

勝手に人類が地位を落とすのは構わないから、私の好きな優しいひとたちをそのくだらない下等生物のone of themにはしないでね

私の好きな優しいひとたちをどうかただの犠牲者にしないでね

いまの世の中で1ばん美しいのは犠牲者だって太宰治は言いました、書きました

でも、犠牲者になって美しいのは、少なくとも私が美しいと思うのはー生意気な言い方をさせてもらえば認めるのはー私の思う優しいひとたちだけです

他のひとが犠牲者になろうが、それはただの運が悪いひとたちです

もちろん敬意は払うし悲しみもします

でも美しさを纏えるのは、やっぱり私にとっては私が思う優しいひとたちだけです

そんなん差別じゃないかって言われても、お前は冷たいやつだって言われても、私は絶対に撤回なんてしません

私の思う優しいひとたちを傷つけても許しません

ああ 世界が二酸化炭素だらけになって醜くなっても、あのひとたちはそのままでいてくれたらいいなあ

私の思う優しいひとたちがそのままでいてくれることが私の希望だなあ

私はわがままだし差別ばっかしてるから、世界とか世間とかの希望はほんっとにどうでもよくて、そんなんどうせ定期的に脱皮して新しくなるんだし、皆も世間もどうせ新しいものが好きなんだし、もてはやすんだし、世界や世間がどんなに困ってようが、私にとっての希望があり続けてくれればそれでいいと思います

他のひとはどうでもいいので、わたしの思う優しいひとたちはみーんなその美しさを失わないまま、幸せになってください

こんな明らかな差別をここに大きな声で宣言して、ひとによって態度を変えるなんて当たり前だろって主張し続けて、ほんとにわがままで何考えてるかわかんない子って毒づかれて、また黙っとけばいいこと書いちゃったかな、体調崩すとどうも寂しくなって書きすぎちゃうな、早く元気になっておいしいもの食べたいな、私の思う優しいひとたちと食事したいなって考えながら、おやすみ世界

お わ り

だって世界は自分に都合よく作られてるわけじゃないんだし

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こんばんは
今日はわたしの座右の銘についての記事にしますしました

ひとってそれぞれ自分を鼓舞するためだったり、戒めるためだったりで座右の銘を持ってるんじゃないかなと思います

座右の銘ってほど仰々しくなくても、少なくとも何かしらこんな風に生きたいなあとか、こんな人になりたいなあとかはあるよね、明確であれぼんやりであれ

ほんとに人の数だけ座右の銘はあるだろうけど、私の座右の銘は崔援の漢詩座右の銘』そのものです、私を戒めるための大好きな言葉です、という話をこれからしていきます

まずはその漢詩を紹介するところから(出だしとか有名だし知ってる人多いかも)


〈原文〉
無道人之短、無說己之長

施人慎勿念、受施慎勿忘

世譽不足慕、唯仁為紀綱

隱心而後動、謗議庸何傷

無使名過實、守愚聖所臧

在涅貴不淄、曖曖内含光

柔弱生之徒、老氏誡剛彊

行行鄙夫志、悠悠故難量

愼言節飲食、知足勝不祥

行之苟有恆、久久自芬芳



〈以下わたしによる頼りにできない意訳〉

他人の短所は批判すべきでなく、自分の長所は自慢するものじゃない

自分が他人のためにしたことは心に留めず、他人が自分にしてくれたことは決して忘れるな

世間の評判には惑わされず、仁を大切にするべきではないのか

落ち着いて行動すれば、誹謗だって気にならないものだ

名声を実力以上にするな、愚直であり続けることが尊いとは聖人が言ったことだろう

例え悪い環境にあっても染まらないようにせよ、外見には暗愚を纏いながらも、内では明哲さを手離さない人であれ

軟弱な様があるべき生き様だ、強くあることに対しては老子だって戒めている

いかにも仰々しく構える奴はたいしたことがない、真に思慮深い人は悠々としているものだ

言葉を慎み、暴飲暴食はするな、満足することを覚えれば、悪いことは起こらない

このようにして生きれば、いつか花咲く日も訪れるであろう

 


誰かさんの主観的な訳で申し訳ないけど、私これすんごい好きで、これが実践できるひとになりたいなあと思ってきたきてるわけです、難しいけど

ちょっと茨木のり子さんの『自分の感受性くらい』と重なるところがあるし、他人の短所を批判するな、ってところでは『グレート・ギャツビー』の冒頭を連想しちゃうんだけど、それはまあまた今度のために置いといて、この漢詩の内容は超ざっくり言えば「謙虚であれ」そして「自分の尊厳を守れ」って印象です

相手の欠点は責めないで、自分のできることは不必要に言いふらさない

与えたものは返ってこなくて当然って考える

皆、自分になんか関心はないけど、自分が「この人のためにならあんなことしてあげたいなあ」って思いは見返りを求めない純粋な心で実行できる

そんな状況でも不平等だなんて愚痴らないで

威張らないで

見栄を張らないで

謙虚に愚直に弱く

ばかみたいに生きたいなあと

いつもいつも思っています


実践できてるかというとむしろまだまだだけど、クイーンオブ傲慢おめでとうございますって感じだった頃は「私は自分の時間を犠牲にして◯◯ちゃんのためにこんなことあんなことしたのに、私が困ってる時はそんな放っておくなんて無情かよ」って生意気なことを思ってました

なんか私だけ損してる気がしたので

でもこれってその他人を貶してるんじゃなくて、自分自身を否定してるんじゃないかなと思ったわけです

私が「してあげたい」って思ってしたことが、見返りを求めることで急に醜いものに見えてきたというか

自分がその人のために使った時間を「無駄」ってとらえて、その人のために何かをしてあげた自分を貶してるような、自分で自分の価値を下げてるような気がしたんだよね

なんか、そのときに、別に優秀な人間じゃなくても、せめて謙虚さは失わないでいたいなあって思ったんです

もちろん他人から何かしてもらえることって嬉しいけど

それを当然としてみなすのはおかしいよね

だって世界は自分に都合よく作られてるわけじゃじゃないんだし

相手から構ってもらえなくても、お返しがなくてもそれは異常じゃない、それが普通なんだと思う

世界は無関心です

っていうか、私は「自分が好きで勝手にしたくせに、ひとに自分への恩恵を押し付けるな、おこがましい」って自分に言い聞かせてきたから、ちょっと人と感覚がズレてるときがあるんだけど、求めすぎない、っていうのはひとつの在り方かなとは思ってます

少なくともありがたみを感じられるようにはなるよ(笑)

実際、私は他人から何かお誘いしてもらえたり、何かもらったりしたときにめちゃめちゃ嬉しがって見えるらしいんだけど、実際スーパー嬉しいので当然です(笑)

なんなら自分が発信したことに応えてくれるそれだけでもありがたいなあっていつも思ってます

無関心な世界で誰かが反応してくれることは奇跡だと思ってるし、周りが応えてくれる時の嬉しさが沁みるからこそ、たとえ周りが反応してくれなくても、自分は反応してあげたいです

偽善者かよって思われるかもだけど、この世の中に偽善者じゃないひとがいると思ってんなら、自分が偽善者じゃないって言い切れるんなら、そう言ってね


最後に、私は周りの人に対して「自分のために何もしてくれなくて当然な人たち」とは思ってないから、そこは念を押させてください

私の周りのひとたちは、私にはもったいないくらい素敵なひとたちしかいないし、本当にひとに、環境に恵まれたなあって感じます

いつもにこにこがとまりません

周りの皆のおかげです

皆が思ってるほど私は皆に関心を持ってはいないけど、皆が思ってるよりずっと私は皆のことがすきです

お わ り

早く迎えに行ってあげないと

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こんばんは

第2回目です(←こんなん絶対後で書かなくなる笑)

今日は前回ちょろっと触れた書くことについてと、かつそれに加えて読むことについても少し書いてみようかなと思います

単刀直入に言うと、私は書くことが好きなのと同じくらい読むことが好きです

「読む」と「書く」は絶対に平行線じゃなくて、延長線上にあるものだと思います

そして面白いなあと思うのは、「考え」て読んだり書いたりはしてないことです

作文とか、よく書いてる映画レビューも、考えたことを整理して書いてるんじゃなくて、書くことで自分が何考えてるか気付けて、整理できています

書いてるうちに「へえ、わたしこんな風に考えてたのか、面白〜」とかひとりで思ってます(笑)

これほんと変な順序に見えるんだけど、でもどんなに変でもそうなんだから仕方ない

ほんとに私はぽけ~っとして過ごしてるけど「書く」ことで自分の中に灯った火を風から守ってあげて、小さくても芯のしっかりした炎にしてあげたいなあと思ってます

もし書かなかったらきっとすぐ消えてしまうくらい弱々しい火ばかりだから、この感覚が訪れるのはもうこれっきりかもしれないから、自分のために書いて、どうにかしてこの感じを覚えておいてあげないと、みたいな感じ

書くことでそれ以上のお返しが自分に戻ってくることを確信してるから、有限な時間の中で書いて書いて書きまくりたいと思う

語彙力がなさすぎて自分と言葉の限界を毎日感じつつ、でもどうにかこの感覚を文字に呼び起こす悪あがきをやってみないと、消えちゃう!ああもうちょっとで消えちゃう!って思えるうちはまだましだけど、気づかないうちに、宝物になったかもしれないその感覚を失ってしまうのはあまりにもったいないから

書かなければ



書きたい

をごちゃまぜにした感覚でいつも私は書きます

だからこのブログの読者は私以外の誰かと「これから先」の私です

どちらにも、何か届いたらいいなあくらいの気持ちだけど

「ぜんっぜん何書いてるか不明」って思われても、その感覚もきっと大切にできるはずだし、言葉が生きるのは「どう書かれたか」じゃなくて「どう読まれたか」にかかってると思う

書き手じゃなくて読み手が言葉が秘める無限の感覚を引き出して、読まれた時初めて言葉は意味をなす、と思います

だからたくさん読みたいね

著者が何を伝えたかったかを考えるというよりも、それを読んで自分の中にある何かに気付けたかを大切にしたい

新しい発見なんて全然なくて、埋もれてた何かを発掘する作業が「読む」なんじゃないかなあ

この本を読んで新しい発見があった

なんて

それは嘘、勘違い、言葉の選択ミス、騙されてる、と思う

自分が忘れてるってことさえも忘れてたような感情に再会できただけで、

ごきげんよう、お久しぶり、って感じ

絶対覚えてることより忘れたことが多い

だから読んで読んで思い出したい

早く見つけてあげないとそろそろ時効なフィーリングもあるかもしれないから

早く迎えに行ってあげないと

大昔から埋もれてる何かはずっとずっと待ってくれてるから、

今しか出来ない「読む」が今しか出来ない「書く」と同じくらいきっといっぱいあるから、

読んで 書いて 読んで 書いて

たくさんインプットしてアウトプットしていきたいなあ

雨の日はいつだって読書の味方です

素敵な夜をお過ごしください

 

あの頃に戻っても、私は私を止めたりしない

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こんばんは


前のブログを長い間放置していた結果、IDとパスワードを忘れ、かつ「IDとパスワードを忘れた方へ」の指示に従ってもログインできなかった人です

機械音痴なので、「仕方ない、もう別のブログ作っちゃえ!」ってことで如月に新しく作り直しました

第1回目の今日は、ブログ名について

An Eductionにしたのは、書くことが私のeductionだと思ったからです

由来は高2のときに観た『17歳の肖像』の原題(An Education)で、それをそのまま使わせてもらってます

この映画は、ちょっと背伸びしたいお年頃の高校生が大人の世界に足を踏み入れて大切なものを失いながらも、それらを通して精神的に大人になるお話

若気の至りってまとめるとそれまでだけど、大人になるまで、キラキラしてるだけじゃない大人の世界を知る苦い経験、ある意味自分の失敗談すらも含めて全部人生のeducationになるんだと教えてくれる(と私は解釈している)1本です

この映画において、お洒落な映画だとかCarey Mulligan可愛いだとかはどうでもよくないけど今はどうでもいいとして

私が当時思ったのは、世界を知ることは痛いことなんだなあってこと

そして、世界を知ることと同じように、世界に自分を晒していくことも痛いなあってことです

私は、自分を周りに晒すのを拒むタイプです

それは授業で発表しないとか意見言わないとかじゃなくて、「寂しい」だとかのパーソナルで無防備な感情を極力発信しない人って意味で

(嬉しいとか楽しいはすぐ表すけど)

自分は寂しいんですって言って泣いて問題が解決するわけでもないし、そもそもほんとに感情爆発してたら寂しいとかいう3文字だけで私のあんな気持ちやこんな気持ちが表されてたまるかよって、気持ちが強いほど抽象的な言語化はしたくなくなる(私 is 怠惰なだけだけど、これについてはまたいつか書こう)

すぐ泣いちゃう人、すぐ悲しい寂しい嫌だって言える人はすごく素直で可愛いなあって思うけど、わたしは人前でそんなこと言うのが厭だし、なんか自分で許せないなと思ってしまう(これはどっちが正しいとかじゃなくてほんとにその人によるところが大きいと思うってことは書いときます)

もちろん全部セーブできるわけじゃないけど、他人に見せたくないパーソナルな理由で悲しいとき寂しいときは誰かの前では泣きたくないから、泣くときの95%は「今なら泣いてもいいかな」と判断してから泣いてる

…泣くときさえわりと考えて泣くから私はほんとに可愛くないと思う(笑)

でも、やっぱりそういう自分の弱い面を見せるのは嫌だし、いや、うーん、嫌というか、弱い面に限らず自分を出すことは怖いことだと思う

最初に言ったように

でも、わたしは「書く」って作業がめちゃめちゃ好きで、それは「書く」ことで今まで知らなかった名前もないような感情に出会えたり、自分の弱いところを知れば知るほどひとつ強くなった気になれたりするからです

だからほんとにザ・自己満な「わたしの思ったことたち」みたいな、そうやって痛いかもしれないけど決して無駄にはならない私の一部を「書く」ことをマイペースにやろうかなあ、とほんとに、スーパー気まぐれに思いました(笑)

An Educationの日本語キャッチコピーは、 

「あの頃に戻っても、私は私を止めたりしない」

未来の自分にから見たらばかに見えたり幼稚だったなと思ったりするかもしれないけど、でもそんなばかに見える過去と今の自分が未来の自分を作るんだし、未来の自分にはない何かを持ってるのもそのふたりだと思う

なので、恥ずかしい文章を堂々と書いてやろうと思います

だいたい私は手紙とか書いて人に渡した後とかも「ああもうやってしまった、またあんなこと書いてしまったよううう」ってなりながらもなんだかんだ懲りずに書いていつも最終的に発狂してるし(笑)

ということで、更新頻度の波ありまくりだと思うけど、ちょこちょこ書いていくので暇だったら時間つぶしにでも寄ってください

次の記事は、驚くほど雑なブログ用のメモ帳をスクロールして気分で決めます(「白目について」とか「絶対について」とか1行メモしかない笑)

P.S. 今日で21歳になりました
このままずっとばかなままでいたいです

お わ り